デス・オーバチュア
第166話「長い幕間の始まり」




クリスタルレイク。
その名を持つ湖は二つ……二カ所に存在した。
一つは中央大陸の最西、緑と青の境界線に存在する古代湖。
もう一つは空に浮遊する島であるクリア国に存在する同名の古代湖だ。
この二つの湖は、表と裏、入口と出口の関係なのである。
つまりクリスタルレイクとは、空の上に存在するクリア国へ至るいくつかのゲートの一つだった。


湖面から肌色の手が飛び出した。
手は湖の淵に掴まると、自らの残りの体を陸地へと一気に引き上げる。
「…………」
クリアの大地へと足を踏み入れた女は、水に濡れた長髪を手櫛で掻き上げた。
黒のタートル(首に沿って筒状に伸びた襟のシャツ)とジーンズ(丈夫な細綾織りの木綿布のズボン)、赤いジャケットを羽織った二十歳前後の女性。
彼女の胸元には、血のように赤い宝石のペンダントが輝いていた。
「……ここを通るのはこれっきりにしたいわね……」
気怠げに、微かに不快げに呟くと、女は歩き出そうとする。
だが、女が一歩を踏み出すよりも速く、先程の女と同じように湖面から手が飛び出した。
女は塗れて顔に貼りつこうとする茶色の前髪を手で掻き上げながら振り返り、赤い瞳で、湖面から飛び出した人物を注視する。
「……黄金騎士ガイ・リフレイン……?」
湖の中から大地に飛び出したのは、短く切り揃えた銀髪、アイスブルーの瞳、黒いロングコートの青年……ガルディア十三騎の黄金騎士にして、西方マスターズのソードマスター、ガイ・リフレインだった。



「ふう、危なく人生の三分の二を損するところだったわ……」
クロスティーナ・カレン・ハイオールドは大きく息を吐き出すと、イスの背もたれに体重をかけた。
場所はクリア国の図書館。
彼女はたった今、自分会議を終わらせ……己が内面世界から帰還したところだった。
端から彼女を見ていたものが居たとしても、机に突っ伏して居眠りをしていた少女がガバッと起き上がり、イスに背中を勢いよくもたせかけた……ようにしか見えなかっただろう。
「まあ、三分の一は相変わらず損する気がするけど……この辺が妥協所か……」
今、この図書館に居るのはクロスだけだった。
だからこそ、こうして堂々と独り言を呟いたりしているのである。
ちなみに、さっきまでクロスの内面世界で行われていた自分会議の議題は、彼女達三人の体の使用権についてだった。
「シルヴァーナには感謝しないと……というか、『彼女』が質悪すぎるのよ……」
彼女というのは、クロスともシルヴァーナとも違う三番目の人格のことだ。
会議の結論は、三日に一度、彼女がクロスの体を使用し、シルヴァーナは定期的には使用しないということに落ち着く。
シルヴァーナは出たい時にさえ表に出させてくれれば、普段は自分の時間はいらないと、クロスに体の使用時間を譲ってくれたのだ。
一見、性格や雰囲気が魔女、悪女ぽいシルヴァーナの方が、女神のような彼女より、優しく遠慮深いというのは何の冗談だろう?
クロスの中で、シルヴァーナへの好感度がグ〜ンと上がり、彼女への好感度がガクンと落ちていた。
もっとも、彼女は好感以前に、『自分』ながらいまだに得体が知れない存在なのだが……。
「さてと、じゃあ、せっかくの時間を有意義に使うとしますか」
クロスの前の机とその周りには、分厚い本がいくつも山積みにされていた。
「セファー・ラジエルは後回しにして、まだ少しは解読が楽なテオゴニアの方からね……」
天使ラジエルの書(セファー・ラジエル)、神統記(テオゴニア)魔界編……どちらもレア中のレアな古文書である。
古文書の解読、そして得た知識による新しい呪文の収得や開発……それこそがクロスの趣味、休日の有意義な過ごし方だった。
「あ、お姉ちゃん、またこのご本読んでいるの?」
声と共に、何かがクロスの首に抱きついてくる。
「あなたは……相変わらず神出鬼没な上に気配がない娘ね……」
抱きつかれるまで、何の気配も感じることができなかった。
「あ、今日は違うご本を読むんだ?」
青銀色の髪の幼い少女が、背後からクロスに抱きついたまま、テオゴニアを覗き込んでくる。
「そのつもりだったけど、あなたが来たんなら、またこっちを読んで貰えない? えっと、ア……アル……アルなんだっけ?」
「アルテミスだよ、お姉ちゃん。いい加減覚えてよ〜」
「ごめんごめん……でも、まだあなたとあたし会ったのこれで三回目じゃない?」
一度目はクリスタルバレーで、二度目は今と同じこの図書館で……クロスの記憶ではアルテミスと出会った回数はこれだけのはずだった。
「で、今回もあの冷たい感じの男と一緒なの?」
クロスはセファー・ラジエルのページを開きながら尋ねる。
「あはは、クールガイ(冷たい漢)? まあ、確かに端から見たらガイはそんな感じかもね?」
「少なくともヒートガイ(熱い漢)って感じじゃないわよ。で……あ?」
突然、横から伸びてきた手がテオゴニアをクロスの前から取り上げた。
「なるほど、テオゴニアの写本ね……」
聞き覚えのない女の声。
いつの間にか、クロスの隣に、茶髪のストレートロングに、濃い赤眼をした、スラリとした長身の女性が立っていた。
「……本物と違って情報は増えないわけね。書かれた……写された時代までの知識……そうね、おそらく書かれたのは今世の魔王時代の前期ぐらいかしら……?」
女はペラペラと凄まじい速さでテオゴニアをめくっている。
「ちょっと……あなた……いったい……?」
「ちょっと待ちなさい、すぐ読み終わるから……」
「読み終わるって……速読!? 古代語な上に、アナグラムを大量に使って書かれてるのに……」
「はい、終わり……やっぱり、知っている知識の復習ぐらいにしか成らなかったわ……」
女はバタンと本を勢いよく閉じた。
「……知っている知識?……嘘でしょう……魔界の全てが書かれている本なのよ……」
クロスは、信じられない、何者だこの女?……といった眼差しを女に向ける。
「まあ、魔界創世の辺りの真実は割と面白かったわね……それよりも、貴方……魔術師よね? ただ知識として魔界の歴史を知りたいだけではなく、高位魔族との契約呪文でもマスターしたいの……?」
「ええ、そうよ……何でもお見通しって感じね……ああ、でも、これは予想外でしょう! あたしはなんと四方の魔王のうち三人までと契約を交わしているのよ! どう凄いでしょう!?」
クロスはえっへんといった感じで、胸を張って言った。
「あら、そうなの? それは凄いわね……」
だが、女の反応はあくまでもクールでドライであり、クロスの期待した反応とは違う。
「ちょっと……もう少し驚きなさいよ……」
「……ちゃんと驚いているわ……一人だけじゃなく、複数の魔王と契約できた魔術師は貴方が歴史上初めてじゃないかしら……そうね、それなら……」
女は再びテオゴニアを開くと、ページを物凄い速さでめくりだした。
「……あった。次はこの辺を勉強することをお勧めするわ……」
そう言って、女はテオゴニアを開いたまま机の上に戻す。
「あ、魔王の項の番外編だね」
いまだにクロスに抱きついたままのアルテミスが、ページを見るなり言った。
「番外編?」
「うん、限りなく魔王に『等しい』力を持つ高位魔族達の紹介ページだね。電光の覇王ランチェスタ……次が……の魔王……あれ? 字が薄れてて読めないね、ここ……」
「魔王の数が常に四人に限られているだけで、魔王に匹敵する存在……例外はいつの時代にも存在したのよ……」
女はいつの間にか、図書室の入口にまで移動している。
「まるで見てきたみたいに言うわね……」
「……ああ、そうそう、その子に読んで貰うのではなく、ちゃんと自分で解読しなさい。そうしないといつまで経っても一人で読めるようにならないわよ……」
女はクールな口調と眼差しで言った。
「うぐっ……」
「馬鹿なら馬鹿なりに、知恵を絞りなさい。いい?」
「うっ……何よ……急に先生みたいに……」
「先生? そうね……なんなら家庭教師でもしてあげましょうか?」
女はクスリと笑う。
明らかにクロスはからかうような微笑だった。
「結構よ!」
「そう、残念……ああ、結構という言葉は肯定の言葉にも取れるから、断る時には適切ではないわね……」
「ぐっっ……」
クロスは再び言葉に詰まる。
何かこの女は苦手だ……やたらと言葉に詰まってしまう、反論したくても反論できくなるのだ。
「……じゃあ、機会があったらまた会いましょう……」
言葉が終わるよりも速く、女の姿は図書室から消え去っている。
「……ねえ、アルテミス……あの人、誰? あなたの知り合い?」
「ううん、知らない人だよ。クリアに到着する時、たまたま一緒になったの」
「たまたまね……まあいいわ。じゃあ、勉強を……読書を始めましょうか、アルテミス?」
「うん。じゃあ、まず天使語の読み方をお姉ちゃんに教えてあげるよ〜」
「うっ……まあ、そうよね、読んで貰うだけじゃ自分のためにならないのは……確かよね……」
「まずは基本語から〜」
こうして、アルテミス先生の天使語講座が始まるのだった。



エラン・フェル・オーベルの部屋に初めて足を踏み入れた者は、大抵ゾッとする。
ゾッとまでしなくても、まったく驚かない者はいなかった。
なぜなら、彼女の身分と地位の割には質素で狭めの部屋には、動物達が放し飼いにされているからである。
書物と観葉植物に埋め尽くされた部屋の中を、蛇が這いずり、兎が飛び跳ね、犬が駆け回る……空には鴉が旋回していた。
ちなみに、全ての動物達が不可思議な藍色をしている。
この部屋に居る生命は、部屋の主人であるエランと、藍色の動物達だけだった。
……いや、よく見ると一匹だけ例外が居る。
猫だ。
部屋の中央の揺り椅子に座っているエランの足下で丸くなっている猫は他の動物達と同じ藍色だが、エランの膝の上で丸くなっている猫は『黒い』。
どっから見ても典型的な……見事なまでの黒猫だった。
黒猫はエランに撫でられ、気持ち良さそうに鳴く。
黒猫はこの部屋で異質であり、新入りであるにも関わらず……まるで自分がこの部屋で一番偉いかのようなふてぶてしい態度をしていた。
「…………」
こうして、動物達とまったりと過ごす時間と空間は、エランにとってかけがえのない癒しの時間と空間である。
人間には冷酷な彼女だが、動物達にだけは、自分の使い魔達に限らず、とても優しかった。
現に、半月ぐらい前にいきなり転がり込んできたこの黒猫も、自分の使い魔達と同じように面倒を見ていたりする。
「…………んっ……」
そんな安らぎの空間に、微かに『揺らぎ』が生じた。
「出なくていいですよ、ヴァル・シオン……知っている方ですから……」
エランは猫を撫でながら、姿無き誰に話すかのように呟く。
その直後だった。
エランの部屋のドアが乱暴に開かれ、銀髪の青年が姿を現したのは……。
「ようこそ、私の部屋へ。歓迎いたします、ガイ・リフレイン殿」
エランは揺り椅子から立ち上がると、礼を尽くした挨拶で、突然の来訪者であるガイ・リフレインを出迎えた











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一言でいいので、良ければ感想お願いします。感想皆無だとこの調子で続けていいのか解らなくなりますので……。



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